【従業員の勤労意欲を高めるために】第895回:やりがい搾取(10)海外駐在員とやりがい搾取

第895回:やりがい搾取(10)海外駐在員とやりがい搾取

前回は、「許容できる不均衡を見つけるための研究」の必要性を述べました。こうした研究は、特に日本において強く求められていると考えられます。日本の付加価値に占める人件費の割合、いわゆる「労働分配率」は一貫して低下傾向にあり、とりわけ、1996~2000年から2016~2020年までの低下幅はOECD諸国の中でも上位に入るほどの大きさです(厚生労働省, 2023)。言い換えれば、今日の日本は、以前の日本よりも搾取的であり、世界の趨勢を逸脱しています。しかし、日本企業の国際競争力の低下という事情に照らせば、ある程度の賃金抑制はやむにやまれぬものであったという側面もあります。厚生労働省の分析によれば、労働分配率の低下は主に賃金の伸び悩みによるものであり、(1)先行きの不透明感による企業の内部留保の増加、(2)労働組合組織率の低下による労使間交渉力の低下、(3)産業構成・勤続年数・パート比率等の雇用者構成の変化を原因としています(厚生労働省, 2023)。

努力と報酬の不均衡(ERI)への労働者の耐性を考えるうえで、読者の皆さんのような海外駐在員の働き方を考えるのは良い出発点です。海外子会社に派遣される駐在員は、ERIに対する耐性が低い仕事の代表例といえるかもしれません。駐在員の使命は、3年から5年の任期中に本社から与えられた任務を遂行することです。駐在員に過剰な権限が与えられると、現地法人の活動が本社の意図から逸脱し、エージェント(現地子会社または駐在員)が自分の利益を優先してプリンシパル(本社)の利益を損なう、いわゆる「エージェンシー問題」が発生します。日本企業はこの問題に特に敏感であり、その結果、他の先進国の企業よりも現地化に消極的であることが知られています。また、内発的な意欲や情熱は、面白くない仕事をする人への差別や、自信過剰、協調性の欠如につながり易いことが先行研究から明らかです。

現地の文化を理解し尊重しながら現地人材と協力して働く必要がある駐在員が過剰な熱意を持っていると、 日常の管理業務に支障をきたす可能性があります。ERI、すなわち、労働条件に反映された本社の期待を超えた努力が発生する状況では、トラブルが発生し、駐在員の業務遂行能力が低下すると考えられます。しばしば取り沙汰される駐在員の不適応による健康状態の悪化、早期帰国、自殺などの問題も、ERIによって引き起こされる可能性があります。こうした問題が起きないために、日本本社は、現地に派遣する駐在員の人選に慎重を期すとともに、駐在員への期待する働き方を明確に提示して、求められる努力に相応しい待遇や労働環境を用意する必要があります。

Kokubun, K. (2024). Effort–Reward Imbalance and Passion Exploitation: A Narrative Review and a New Perspective. World, 5(4), 1235-1247. https://doi.org/10.3390/world5040063

厚生労働省(2023).令 和 5 年 版 労働経済の分析-持続的な賃上げに向けて〔概要〕令和5年9月、厚生労働省.https://www.mhlw.go.jp/content/12602000/001149098.pdf

國分圭介(こくぶん・けいすけ)
京都大学経営管理大学院特定准教授、東北大学客員准教授、機械振興協会経済研究所特任フェロー、東京大学博士(農学)、専門社会調査士。アジアで10年以上に亘って日系企業で働く現地従業員向けの意識調査を行った経験を活かし、産業創出学の構築に向けた研究に従事している。
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【従業員の勤労意欲を高めるために】第894回:やりがい搾取(9)搾取はどこまで許されるのか?

第894回:やりがい搾取(9)搾取はどこまで許されるのか?

前回は、職種別の搾取の実態に関する研究が乏しいことや、女性や地位の低い若者がやりがい搾取のターゲットになり易いことを述べました。

加えて、既存のやりがい搾取研究においては、「どの程度の不均衡が許容されるのか」について、経営者の視点からの分析が不足しています。もしも不均衡が常に従業員の否定的な経済行動や精神的・身体的障害につながるのであれば、長期的で合理的な視点を持つ経営者は搾取を避けたいと思うでしょう。しかし、長年にわたり、経営者が内発的動機づけ理論やリーダーシップ理論などを参考に従業員から報酬を超えた努力を引き出すための努力をしてきたことも事実です。このことは、少なくとも経営者の短期的な視点からは、搾取に一定のメリットがあることを意味します。もしもやりがい搾取と努力・報酬の不均衡(ERI)が誰の目からも明らかに有害であるならば、経営者はとっくの昔にそれを放棄していたでしょう。

一見すると「許容できる不均衡を見つけるための研究」という考えは傲慢に聞こえます。しかし、不均衡を許容する経営者であると世間から見られたくないために内発的動機づけや変革的リーダーシップなどの美しい言葉に頼る経営者は、劣悪な労働条件を隠すために人材採用の現場で「ウチの仕事はチャレンジングですよ」などと言い真実を隠蔽する行為に近いといえます。どの程度の不均衡が有害であるかが明らかになれば、組織やそのメンバーの凋落につながる不合理な搾取がより目立つため、労働者にとっても有益なものとなる可能性があります。

しかし、やりがい搾取やERIに対する耐性を明らかにする研究がランダム化比較試験などを採用すると、参加者が一定期間搾取の対象となるため、倫理的な問題が生じるリスクがあります。したがって、失業や心身の不調などの経済行動を経験した参加者に、その経験の原因を問うケースコントロール研究や、標準化された質問紙を用いた横断研究を行うことが望ましいでしょう。さらに、このような研究を進めるためには、労働者の視点を持つ社会学、倫理学、公衆衛生学の研究者や、経営者の視点を持つ経営学や経済学の研究者が、やりがい搾取やERIの研究にもっと関与し、同じテーブルで議論することが望ましいでしょう。

 

Kokubun, K. (2024). Effort–Reward Imbalance and Passion Exploitation: A Narrative Review and a New Perspective. World, 5(4), 1235-1247. https://doi.org/10.3390/world5040063

國分圭介(こくぶん・けいすけ)
京都大学経営管理大学院特定准教授、東北大学客員准教授、機械振興協会経済研究所特任フェロー、東京大学博士(農学)、専門社会調査士。アジアで10年以上に亘って日系企業で働く現地従業員向けの意識調査を行った経験を活かし、産業創出学の構築に向けた研究に従事している。
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【従業員の勤労意欲を高めるために】第893回:やりがい搾取(8)女性ほど被り易い、努力と報酬の不均衡

第893回:やりがい搾取(8)女性ほど被り易い、努力と報酬の不均衡

前回は、努力と報酬の不均衡(effort-reward imbalance, ERI)により、脳の報酬系が混乱を起こし不健康な行動への抑制が働かなくなるというお話でした。

やりがい搾取のこれまでの研究は、地位の低い若者ほど、また男性よりも女性が、搾取され易い傾向があることを示しています。さらに、ERIと冠状動脈性心臓病との関連は、社会経済的地位の高い従業員よりも低い従業員、高齢の従業員よりも若い従業員で大きいことが示されています。同様に、最近の研究では、ERIと自殺念慮との関連は、性別、地域、教育、および世帯収入によって異なることが示されています。しかし、ほとんどの研究は、部門ごとの医療専門家の意識を扱った一部の研究を除いて、不均衡の違いと職業によるその影響にほとんど関心を示していません。

現在、ジェンダー不平等の視点を持つ研究者によって、職業とERIの関係が部分的に示されています。たとえば、2008年から2014年にかけてスウェーデンで実施された研究では、女性は男性よりも長時間働き、無給労働に多くの時間を費やしていることがわかりました。また、この研究では、無給労働時間の増加と抑うつ症状の進行の増加との関連が、男性よりも女性の方が大きいことも示されました。しかし、こうした問題は、ジェンダーギャップが大きい国に深く根ざしている可能性があります。例えば、日本では、育児や介護を、重労働であるにもかかわらず、女性が家庭でタダでやるべき仕事と捉えている人が多く、それがこれらの産業の賃金が低水準に抑えられている理由かもしれません。したがって、国や産業によって異なる搾取の実態について客観的な情報があれば、これらの人々に必要な支援を引きつけるのに役立つでしょう。例えば、ERIを用いた大規模な調査は、そのような証拠集めに貢献するでしょう。

 

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【従業員の勤労意欲を高めるために】第892回:やりがい搾取(7)努力に見合った報酬が得られないと脳が混乱する

第892回:やりがい搾取(7)努力に見合った報酬が得られないと脳が混乱する

前回は、進化生物学のタームである「間接互恵性」がやりがい搾取や努力と報酬の不均衡(effort-reward imbalance, ERI)に関係する可能性があることを述べました。

一方、脳科学では、努力と報酬に関わる脳領域の解明が進められています。ERIモデルの支持者は、社会的交換の失敗による不平等の経験が脳の報酬回路、視床下部-下垂体-副腎軸を過剰に活性化し、体内のいくつかの調節システムにストレス過負荷の状態を引き起こす可能性があると主張しています。これと一致して、以前の研究では、努力と報酬の計算に関与する皮質-線条体ネットワークの障害が疲労と有意に関連していることが示唆されています。最近のメタアナリシスでは、より具体的に、補足運動野は努力と関連しており、腹内側前頭前野と腹側線条体は報酬の正味値から努力を引いたものと関連していることが示されています。同様に、最近の研究では、ERIが、左淡蒼球の灰白質体積の減少と、前頭前野、線条体、および小脳の機能的接続性の変化に関連していることも示されています。これらの研究は、ERIが、特に線条体において脳の報酬系を損ない、仕事へのモチベーションを低下させ、不健康な生活習慣を促進する可能性があることを示唆しています。

なぜ努力ではなく、努力と報酬の不均衡が心身の異常をもたらすのかについては直感的に理解し難いですが、このように、脳の報酬系が混乱を起こし不健康な行動への抑制が働かなくなると考えれば、生物学的に合理的な説明が可能です。

 

Kokubun, K. (2024). Effort–Reward Imbalance and Passion Exploitation: A Narrative Review and a New Perspective. World, 5(4), 1235-1247. https://doi.org/10.3390/world5040063

 

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【従業員の勤労意欲を高めるために】第891回:やりがい搾取(6)集団の論理で自滅する組織

第891回:やりがい搾取(6)集団の論理で自滅する組織

前回は、人間が作り出した社会システムに対する脆弱性が、努力と報酬の不均衡(effort-reward imbalance, ERI)による心身の崩壊にかかりやすい原因かもしれないというお話でした。

この未解決の問題に取り組むためには、進化生物学や脳科学など、人間の特殊性に関連するさまざまな分野の視点を取り入れる必要があるかもしれません。例えば、進化生物学では、第三者の評判に基づく協力のメカニズムを「間接互恵性」と呼んでいます。直接的な利益がないにもかかわらず評判の良い人に協力したり助けたりする行動は、人間以外の生物ではめったに観察されません。したがって、間接互恵性は、人間が進化の過程で獲得した行動であると考えられています。間接互恵性は、評判が損なわれると誰からの支援も得られなくなるという強力なペナルティを課すことにより、フリーライダー、つまり他人に協力しない個人の増加を防ぎます。このように、人間は集団を維持するために個人に負担を強いる社会を作り、その結果、生存を維持してきたのです。この集団の能力は現代社会にも存在し続けており、個人よりも集団を優先する文化が強い社会(一般的には厳しい自然環境で生き抜くために結束を必要とする社会)が、COVID-19のパンデミックによる感染数の増加を抑制できたことを示す研究結果もあります。

しかし、グループを管理する人々はしばしばこのメカニズムを悪用し、メンバーに肉体的および精神的に破壊的な過度の負担を負わせます。そのような組織は、互恵主義が失敗し、持続不可能な状態にあるため、マネージャーによるそのような行動は、従業員の離職や病気につながるだけでなく、最終的には組織自体を危機に陥れる可能性があります。この種の不合理性は、相互利益を前提とする伝統的な二者間互恵性から明らかに逸脱しています。したがって、間接互恵性の概念をERIとやりがい搾取のモデルに組み込むことは、互恵性の失敗のメカニズムと、一見すると不合理なほどに搾取的な組織行動によるERIの発生をよりよく理解するのに役立つかもしれません。

 

Kokubun, K. (2024). Effort–Reward Imbalance and Passion Exploitation: A Narrative Review and a New Perspective. World, 5(4), 1235-1247. https://doi.org/10.3390/world5040063

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【従業員の勤労意欲を高めるために】第890回:やりがい搾取(5)残業するホモ・サピエンス?

第890回:やりがい搾取(5)残業するホモ・サピエンス?

あけましておめでとうございます。本年も何卒宜しくお願いします。前回は、努力と報酬の不均衡(effort-reward imbalance, ERI)がストレスや病気の原因であるというお話でした。なぜでしょうか。

この問を解く手がかりは、狩猟採集で生活している先住民が、がん、心血管疾患、高血圧、2型糖尿病などのERIに伴う病気に苦しむことがほとんどないという事実にあるのかもしれません。これらの病気は、農業が私たちの生活に定着し、定住生活を送り始めた頃に発症するようになりました。ある文献によれば、私たちの脳と体は、約20万年前に現生人類であるホモ・サピエンスがアフリカに現れて以来、ほとんど変わっていません。彼らのように狩猟中心の生活を送っているのなら、報酬に見合った努力をするだけでバランスが崩れることを心配する必要はありません。お腹が空いたら生き残るために動物を攻撃し、お腹がいっぱいになると、またお腹が空くまで狩りをしません。私たちの心と体は、狩猟によって生きるようにプログラムされているのかもしれません。

しかし、我々は、しばしばこの生物学的法則に反し、近い将来に必要のない報酬を求めて努力します。例えば、組織内で良い評判を得ることが、今は重要でなくても、将来の昇進の機会に関係しているからかもしれません。あるいは、今は非効率的で時間がかかっていても、将来の海外展開のためには、グローバルな倫理基準を遵守する必要があるからかもしれません。その結果、長時間残業、休日労働など、報酬に反映される組織の期待を超える努力をしてしまい、また、疲れた心身を癒すためにアルコールや甘いものを過剰に摂取してしまい、さらなる心身の不調を引き起こしてしまうことがあります。このように、人間が作り出した社会システムに対する脆弱性が、ERIによる心身の崩壊にかかりやすい原因なのかもしれません。したがって、この未解決の問題に取り組むためには、進化生物学や脳科学など、人間の特殊性に関連するさまざまな分野の視点を取り入れる必要があるかもしれません。次回に続きます。

 

Kokubun, K. (2024). Effort–Reward Imbalance and Passion Exploitation: A Narrative Review and a New Perspective. World, 5(4), 1235-1247. https://doi.org/10.3390/world5040063

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【従業員の勤労意欲を高めるために】第889回:やりがい搾取(4)なぜ努力と報酬の「バランス」が大事なのか?

第889回:やりがい搾取(4)なぜ努力と報酬の「バランス」が大事なのか?

前回は、努力と報酬の不均衡(effort-reward imbalance, ERI)ややりがい搾取と、内発的動機づけとの境界は曖昧であることを述べました。

従業員の視点から見ると、ERIはネガティブな経済行動や心身の病気と関連しており、また、やりがい搾取は搾取される人の性格と関連しています。同時に、経営者にとっても、内発的動機づけには協調性の低下などのネガティブな側面があります。これらは、個々の従業員のやりがいと努力に頼る経営は、短期的には成功するかもしれませんが、長期的に維持するのは難しいことを示唆しています。以上を踏まえて、今後は、(1)ERIややりがい搾取についての理解を深める、(2)これらが発生する可能性が高い仕事の種類を特定する、(3)ERIややりがい搾取が仕事によってどの程度許容されるのか、あるいは許容されないのかを明らかにするための研究が必要です。以下では、この3つのポイントを順番に見ていきます。

まず、多くの研究がERIとやりがい搾取がストレスを引き起こすと主張していますが、そのメカニズムは明らかにされていません。なぜ、組織では互恵性が損なわれ、不合理な不均衡が生じるのでしょうか?なぜ、重要なのは努力ではなく、努力と報酬の「不均衡」なのでしょうか?もしも仕事の「量」が大事であれば、重要なのは努力であり、報酬は関係ないはずです。ストレスの潜在的な生理学的指標として知られている毛髪コルチゾール濃度(HCC)を使用したある研究では、仕事の量の大きい労働者のHCCはERIおよび努力と相関しているが、報酬とは相関しないことが示されています。このことから、身体的負荷の大きさを原因とするストレスには、主に報酬よりも努力が関係している可能性があります。

しかし、近年では、努力や報酬だけではなく、両者のバランスが重要であると主張する研究が増える傾向にあります。たとえば、1985年から2005年の間にヨーロッパ6か国で実施された11の独立したコホート研究のデータを使用したメタアナリシスの結果は、職場でERIを経験した人々は、職場で経験したストレスに関係なく、冠状動脈性心臓病のリスクが高いことを示しました。さらに、最近の研究では、努力と報酬のバランスが取れている従業員は、過度の努力をしている従業員と比較して、さらには過剰な報酬を得ている従業員と比較して、仕事への関与が高く、生活満足度が高く、うつ病の症状が少ないことが示されています。ただし、ERIがすべての労働者に同じ影響を与えるわけではないことに注意が重要です。例えば、ある研究は、女性は男性に比べて、仕事を辞める意図に関して、報酬よりも努力に影響を受ける可能性が高いことを発見しました。

しかし、残念ながら、ほとんどの研究は、不均衡がストレスの原因であると決定論的に主張するだけで、この原因を深く掘り下げることを避けています。来週、この問題にもう少し踏み込んでみましょう。

Kokubun, K. (2024). Effort–Reward Imbalance and Passion Exploitation: A Narrative Review and a New Perspective. World, 5(4), 1235-1247. https://doi.org/10.3390/world5040063

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【従業員の勤労意欲を高めるために】第888回:やりがい搾取(3)内発的動機づけの限界

第888回:やりがい搾取(3)内発的動機づけの限界

前回は、忠実な人や寛大な人がやりがい搾取の標的になりやすいというお話でした。

やりがい搾取の理論は、古典的な心理学理論である「内発的動機づけ」の否定的な側面を強調しています。内発的動機づけの理論は、お金などの外発的動機づけだけでは従業員のパフォーマンスを引き出すには不十分であるという前提で、人的資源管理論に取り入れられました。この理論の魅力は、報酬によって提供されるものを超えた努力を引き出すことです。ちなみに、従業員から内発的なモチベーションを引き出す方法の一つに、「変革的リーダーシップ」の理論があり、これは従業員の意識を高め、指示された仕事を超えたパフォーマンスを引き出すことを目的としています。少し大胆に言うと、内発的動機づけや変革的リーダーシップの理論は、経営者の視点に立った肯定的な見方であり、やりがい搾取の理論は、従業員の視点に立った否定的な見方です。どちらも、努力と報酬の差(effort-reward imbalance, ERI)を見ていることに変わりはありません。

しかし、近年では、経営の観点からも、内発的動機づけに対する慎重な見方をする研究が出現しています。その中には、「内発的動機付けの道徳化」についての懸念があります。この議論は、自分の好きなことをするという規範的な圧力が、人々が自分自身や他人にとって満足のいく仕事を追求することを奨励する一方、面白くない仕事を無視することにつながる可能性を主張しています。さらに、「道徳化」の起きた職場では、動機づけられていないように見える人々や、異なるタイプの動機を持つ人々に対する差別的な態度が引き出され、そのことで組織内の全体的な結束に影響が及ぶ可能性があります。この「道徳化」理論と一致して、他の研究者は、仕事への熱意が自信過剰と協力の欠如に簡単に結びつくことを発見しました。

したがって、内発的動機づけは万能薬ではありません。また、上記の議論を考慮すると、内発的な動機を持つ従業員もまた、ERIや情熱搾取の被害者であるケースも少なくないでしょう。内発的なモチベーションが長く続いていると疲れ果て、ある日突然、仕事を辞めたり、心身の不調を訴えたり、チームワークを乱すような行動をとったりと、ネガティブな行動をとることがあるかもしれません。同様に、自分は本質的に動機づけられていると信じていた忠実な従業員は、いつの日かやりがい搾取の標的になっていたことに気がつくかもしれません。だとすると、ERIややりがい搾取と内発的動機づけとの境界は曖昧であり、既存の経営学や心理学が、まだ世の中のビジネスパーソンの期待に応えきれていないことを示しています。

 

Kokubun, K. (2024). Effort–Reward Imbalance and Passion Exploitation: A Narrative Review and a New Perspective. World, 5(4), 1235-1247. https://doi.org/10.3390/world5040063

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【従業員の勤労意欲を高めるために】第887回:搾取の標的になりやすい人

第887回:やりがい搾取(2)搾取の標的になりやすい人

前回は、「努力と報酬の不均衡(effort-reward imbalance, ERI)」の議論を紹介して、努力にふさわしい報酬が得られないと様々な問題が発生することを述べました。努力と報酬の不均衡は、「やりがい搾取(passion exploitation)」という別の概念で議論されています。やりがい搾取とは、雇用主が従業員に、不当に長時間かつ低賃金で働かせることで、従業員のやりがいを搾取する慣行を指します。今日、このような慣行に従事する企業は「ブラック企業」と呼ばれ、日本を含む儒教社会の特徴である集団主義や同調圧力との関連で議論されることがあります。しかし、同様の慣行は世界中で見られ、たとえば、ある研究は、米国の情報技術(IT)ベンチャーが家族のような雰囲気を作り出し、従順な従業員を飼い慣らし、搾取する実態について証拠を示しています。

さらに、このような慣行はすべての労働者を同じ程度にターゲットにしているわけではないことが明らかになっています。これまでの研究では、物語の登場人物に共感できる度合いを実験的に測定することで、忠実な人や寛大な人が搾取の標的になりやすいことが示されています。興味深いことに、これらの研究は、搾取される労働者の多くが、搾取を強いられているからではなく、搾取されることを半ば望んでいるために、搾取されていることを描いています。たとえば、上司は忠実な部下をターゲットにして、本来の役割を超えた仕事を与えますが、ターゲットとなった部下は、そのような余分な仕事を引き受けることが美徳であると信じ、忠実であるという評判を得るために進んで余分な仕事を引き受けます。

このように、やりがい搾取は、たとえそれが悪循環を伴っても、組織と従業員の両方の同意を得て成立します。最近のメタアナリシスの結果によると、人々は、情熱的な労働者が劣悪な待遇(職務内容に関係のない屈辱的な仕事や無給残業など)を受け入れることを当然と見做す傾向があることも示されています。これは主に、情熱的な労働者にとっては仕事自体が報酬であるという信念に基づいています。裏を返せば、やりがいは、労働者に対する劣悪で搾取的な待遇の受け入れにつながる可能性があります。

筆者が日系現地法人で従業員にアンケート調査を行うと、時々、「日本人の上司は頼み易い人に仕事を頼むので、特定の人に仕事が集中する」という不満の声が返ってきます。これも、一種のやりがい搾取といえます。不慣れな異文化環境で日本人駐在員の気持ちを察して、進んで手助けしてくれる現地人材の存在は有難いものです。しかし、有難いで済ませると、職場のモラルが崩壊して、やがて前回述べたように様々な問題が発生する可能性があります。

 

Kokubun, K. (2024). Effort-reward imbalance and passion exploitation: A narrative review and a new perspective. Preprints 2024, 2024090721. https://doi.org/10.20944/preprints202409.0721.v1

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【従業員の勤労意欲を高めるために】第886回:やりがい搾取(1)努力と報酬の不均衡は病気を招く

第886回:やりがい搾取(1)努力と報酬の不均衡は病気を招く

前回までは、高齢者へのICTの普及に向けた課題や可能性についてお話しました。今回からは「やりがい搾取」について書きます。第1回目の今回は、やりがい搾取と関係の深い「努力と報酬の不均衡(effort-reward imbalance, ERI)」について紹介します。読者の皆さんには聞き慣れない言葉かも知れませんが、ERIに関する研究は、今日、ますます活発になっています。

ERIは、高い努力と低い報酬を特徴とする労働条件を指し、仕事のストレスを評価するために使用されます。ERIの概念は、個人が自分の労働を提供し、それに対して報酬が得られることを望む「社会的交換」の考え方に基づいています。ERIモデルによると、個人が仕事に費やす時間と努力は、お金、尊敬、キャリアアップなどの機会で補償されます。個人は、自分が与えるものと引き換えに自分にふさわしいものを受け取らないとストレスを感じます。したがって、ERIは、仕事のモチベーションと満足度を低下させ、組織コミットメントや燃え尽き症候群、欠勤、離職率を高めます。

さらに悪いことに、ERIは個人の身体的または精神的健康に悪影響を与える可能性があります。以前の研究では、ERIが心血管疾患やメタボリックシンドローム、冠状動脈性心臓病、糖尿病、および抑うつ症状のリスクを高めることが示されています。人は、仕事のストレスに長時間さらされると、自律神経が活性化し、コルチゾールの放出が増加するため、メタボリックシンドロームにつながる可能性があります。或いは、いくつかの研究は、ERIが不健康な食事などの生活習慣要因の悪化を通じて、メタボリックシンドロームや他の病気のリスクを高めることを示唆しています。

さらに、ERIのリスクは、すべての労働者にとって平等ではありません。Zhang et al.(2024)は、看護師のERIの発生率が時間の経過とともに徐々に増加していることや、ERIの発生率がアジアで高いこと、さらに、手術室、救急科、小児科、ICUなどの特定部門の看護師の間で高いことを発見しました。これは、これらの部門の看護師の日々の仕事量が多く、また、他の部門の看護師よりも多くの仕事のプレッシャーに耐えているためと考えられます。

努力にふさわしい報酬が得られないと、様々な問題が発生します。皆さんの職場でも注意して見ていくことが大事です。

 

Kokubun, K. (2024). Effort-reward imbalance and passion exploitation: A narrative review and a new perspective. Preprints 2024, 2024090721. https://doi.org/10.20944/preprints202409.0721.v1

Zhang, Y., Lei, S., & Yang, F. (2024). Incidence of effort-reward imbalance among nurses: a systematic review and meta-analysis. Frontiers in Psychology, 15, 1425445. https://doi.org/10.3389/fpsyg.2024.1425445

國分圭介(こくぶん・けいすけ)
京都大学経営管理大学院特定准教授、東北大学客員准教授、機械振興協会経済研究所特任フェロー、東京大学博士(農学)、専門社会調査士。アジアで10年以上に亘って日系企業で働く現地従業員向けの意識調査を行った経験を活かし、産業創出学の構築に向けた研究に従事している。
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